初めは一人で息子を育てるつもりだった実母が、甘い誘いに心変わりして自身の生活のために幼いリックを売ったこと。それでもかすかに期待していた父の家で与えられた、苦痛と屈辱に満ちた生活。
高校卒業を待って家を飛び出し、アメリカに渡って奨学金を得て、ハーバードに通ったこと。
ハーバード時代のリックは、眩しいような容貌と非常に優れた能力のせいで、キャンパスの名物だったそうだった。
「彼に憧れる人間はたくさん居たよ。ひょっとしたら、ぼくもそうだったかも知れないと思う。見るたびに、不思議で目が離せなかった。どうして彼の目はあんなにギラギラしてるんだろうって。あんな風に輝く目には、世界はどう見えるのかなって。リックは、ぼくが育ちの悪い人間を珍しがってるんだって思ったみたいだけど」
そう言って苦笑した彼の表情に、リックはヴィラで再会する前からローレンの特別だったのだ、と俺は知った。
「周りに人が集まっても、リックの方で親しくなった人間は多くなかった。ぼくなんか、幾つか同じ講義を取ったって言うだけの仲だったなあ」
ローレンとリックは、別段親しい友人ではなかった。
それなのにローレンがリックの過去に詳しいのは、リックが信じて全てを打ち明けた友人が後にリックをゆすろうとし、突っぱねられて、キャンパスでぶちまけて回ったからだった。
リックが渡航費用を稼ぐために客を取ったことを笑いものにしたその学生は路上で襲われて重傷を負い、今も病院にいると言う。
リックにはアリバイがあり、犯人は見つからなかった。
その後は、リックに喧嘩を売る人間は学生にも教官にも居なくなったと言うことだった。
「大事な友達だったんだと思うよ、リックがそんなこと話したんだからさ。ぼくは、自分の気持ちや事情を相談するような友達なんて居たことないから、想像するだけだけど。他にはリックから直に打ち明けられた奴なんて、一人も居なかったみたいだしね」
ローレンは、そう言って酷く哀しそうな顔をした。
「そうやって、いっぱい裏切られてきたから。もう他人は、力で縛りつけてあるんでないと、失くならないって思えないのかなって。だから、ぼくを買ったんじゃないかな。絶対に逃げることのできない相手が欲しかったから」
「……だから、お前をヴィラに置いとくのか」
俺は、何となく納得して呟いた。
確かに、ヴィラの犬なら逃げられない。主人が手放さない限り、離れてゆく術はない。
憎んでも恨んでも、主人の情けに縋って生きていく他はない存在。厚遇されている犬ならなおさらだ。主人が失脚したり不興を買ったりして酷い客に譲り渡されることは、絶対に避けたいだろう。
「だから困る。別に我慢してるわけじゃないんだけどな、ぼくは。リックを裏切りたいなんて思ったことない。誓いを立てろって言われたら、何度でも誓うよ。でもリックは、そうして欲しくないんだ。ぼくは彼を憎んで、それでもここがヴィラで自分が犬だから、彼に縋りつくしかなくて苦しんでるんだって。それが、リックの望む真実なんだよね」
ローレンは、くすりと寂しげに笑った。
「結構、無茶苦茶じゃないか?ぼくには彼を憎んでてほしい。でも、快適に暮らしててほしい。リックのお金でしたいことは全部して望むものは何でも手に入れて、その上で、リックが顔を出したときには心の底から憎んで、彼に抱かれる不幸を嘆いて欲しい、って」
俺は、言葉にせずに内心で頷いた。
確かに、リックの望んでいるのはそういうことだった。
ただ手なずけようとしているだけにしては、リックのやることは度が過ぎている。服も家具も、電化製品でさえ、彼が愛犬に贈るものは金がかかっているだけでなく、気遣いに満ちていた。
リックの聡明さをも反映して、ローレンの好みに合わないものが届いたことも、持て余すような見当外れの品物が与えられたことも一度もない。プレゼントには一瞥して解るほどの愛情が溢れている。
リックは、純粋にローレンに快適な生活をして欲しいのだ。
それでも、現れたリック本人は言葉にも態度にも一切やさしさを匂わせない。犬を抱く時の姿には、何とかしてローレンから本気の拒絶や嫌悪を引き出そうと躍起になっている気配すら感じ取れた。
離れたいと望んでも、決してそれができないのだと。それがリックが見たいと思うローレンの真実なのだ。
「リックが望んでるんだって解ってても、ぼくは裏切りたいと思うことはできない。嫌いだけど逃げられないんだってふうに見せたらリックは喜ぶんだろうけど、どうやったらいいのか解らない。ねえイアン、ぼくはどうしたらいいのかな」
「・・・・・・ややこしい話だな」
俺は、こんがらがった気分で言った。
「お前に演技は無理だろう、とは俺も思うけどな。リックもそれは解ってるだろ」
適当に返してグラスの中身を啜ると、口腔に素晴らしい芳香が広がった。
俺の給料ではとても賄えない高級ウィスキー。これもリックの懐から出ている。昔パーティーで飲んで美味しかった、とローレンがもらしたら、次の日に酒屋に半ダースの注文が入ったのだ。
寝話にローレンが何かを喋ると、それが何であってもリックは即座に手配してしまう。俺もその相伴に預かるようになってからブルマンのコーヒーや特上のブランデーに舌が馴染んでしまい、正直な話、少し閉口している。このグレードの飲食物に慣れたら、後の矯正が大変だ。
「お前は飄々としてるんだな、ハーバードまで出た秀才にしては」
俺は、話を変えた。
幾ら欲しいものが全て手に入ると言っても、ヴィラどころかこの家から一歩も出られない生活を本気で少しも不自由と思っていないらしいローレンの様子も、俺からしたら少し不可解だったからだ。
ちょっぴりでいいから自由が欲しい、一時的にでもいいから外で飼ってくれ、とベッドで泣いて縋れば、リックは叶えてくれるかも知れないのだ。
「外で、美女の婚約者とやらとまともな生活をしたいと思うことは?」
俺が言うと、ローレンは今までにないほど透明な眼をして微笑んだ。
「イアン、この本、読んだことある?」
出された本は読み古されてボロボロで、表紙には良く判らない東洋の文字が書かれていた。
「日本の本だよ。リューノスケ・アクタガワの小説なんだ。題名は、“ロクノミヤノヒメギミ”」
「……」
絶対に覚えられない、と確信した俺の表情に、ローレンがまた微笑む。
「貴族だけどあんまり金持ちじゃない家で育った、レディの物語。家の中で親に言われた通りのことだけやって育って、彼女は何も考えずに大人になった。親が死んだ後は、好きでも嫌いでもない男に求婚されて結婚して、捨てられても何も感じなくて、楽器を弾いたり本を読んだりして過ごしてるうちに別の男にプロポーズされて、また何も考えずにOKして」
ローレンは、バイオリンに手をかけた。
「……で?」
「それでね。そんな人生を送った彼女は、死んでも天国にも地獄にも行けなくなってしまうんだ。いいことも悪いこともせず、罪も善行もなく、ただ人形みたいに時を過ごして、全然自分の人生を生きなかったから、神様にも悪魔にも相手にもしてもらえないんだよ。仕方ないんだよね、ちゃんと人間らしく生きてこなかったんだから」
「………」
何と言っていいのか解らずに俺は黙った。ローレンが、本を親しみを込めてなでる。
「ぼくも、きっと天国にも地獄にもいけないんだなって。ずっと、そう思ってた」
何も欲しかったことがないんだ。何も嫌だと思ったことがないんだ。
酷く恥ずかしいことを白状するように呟いたローレンの瞳が、深く沈んだ。
「だから。そのとき周りにいる人がして欲しいと思ってる通りにすればいいやって。ずっと、それだけだったんだよね」
底の見えない深い湖水のような色の瞳を見たとき、俺は少しだけローレンを理解した。
かつてのローレンが少しもそそらない乾いた印象の男だった理由、そして今の彼が少しずつ変わっていく理由。
何ひとつ己の心では感じたことのない男が。初めて誰かを愛し、恋焦がれているのだ。
“……ああ。そうか”
ウィスキーを味わいながら、俺は内心でそっと呟いた。
リックが、ローレンに内心の憎悪と裏切りを期待しながら手元において抱く理由。病院のベッドで横たわっていた傷ついたローレンを見下ろして、青ざめていたリックの表情。
それらの全てが、おぼろげながら、腑に落ちる気がした。
“リックも、お前を見てたんだよ。ローレン”
おそらく。ローレンがリックの飢えて輝く瞳に見とれたとき、リックもまた、ローレンに興味を持ったのではないだろうか。何も望まない、何も拒まない空ろな人形の瞳を眺めて、なぜこんな風に自分自身にまで無関心で居られるのか、と呆れながらも気にかかっていたのではないだろうか。
そして想像するならば、きっとキャンパスでリックの醜聞が流れた時ですら、ローレンの瞳には色がなかったことだろう。周囲に流されるままに距離を取りながらも、その目には軽蔑も嫌悪も、同情も哀れみも、本心から滲み出てくる感情は何一つなかったのだろう。
ただひたすらに透明な、ガラスの瞳。それが、リックにとってのローレンだったのではないだろうか。
プラスはないがマイナスもないゼロの存在。それこそが、リックが側に置きたいと望んだローレンだったのだ。
ガラス珠の瞳に、自分の手で初めて感情が宿り、自分を見る。蔑むことも哀れむことも知らない、目を開いたばかりのローレンがリックを見る。
その瞬間に刷り込まれる感情は、己を力で犯す男への憎悪だ。何ひとつ混じりけのない憎悪の感情が、真っ直ぐに自分だけに向けられる。
そして、この世で一番リックを憎み抜いてもなお、彼は離れることなく跪いて、情けを請うのだ。
決して逃れる術のないヴィラの中、どれほど憎悪に身悶えしても、ローレンは決して彼を裏切れない。裏切れば、己自身がこの世の地獄へ落ちることになるからだ。
陵辱と引き換えに安楽な生活を保障してくれるリックの庇護を失ったとき、人気のない売れない犬である彼に待っている末路は、良くて薬殺。順当なら、廃人かトルソーだ。自殺すら困難な身体で、殺してもらえる日を待ち続けることになる。
ヴィラの犬である限り、永遠に。何を考えようと何を想おうと、ローレンは決してリックの手をふり払おうとはしないだろう。
それが、リックの心積もりだったのだ。
けれどリックにも誤算はあった、と俺は苦い思いで呟いた。
齢二十数歳にして初めて目を開いたローレンは、そこに居た男を憎まなかった。
かつて、空ろな人形の自分でさえ淡い興味を抱かずに居られなかった美しい強い男を、犯されても憎むことが出来なかった。
2人のどちらのせいでもなく、残酷な神の気まぐれによって紡がれた運命。生まれて初めてローレンの知った強い想いは、憎悪でなく愛だったのだ。
リックは、それを受け止められなかった。
愛するものに憎まれ裏切られることに慣れきっていたリックも、愛される覚悟はしていなかったのだ。
どうする術もなく、リックはただひたすらに、憎しみを望んだ。直接の暴力で傷つけることには自分が耐えられないくらい愛している青年に、憎しみで返せと言い続けて、何年もの時が過ぎた。
「……リックが可哀相だ。何もない空っぽの人間を抱いてしまって、持て余してる。ぼくは何もしてあげられない」
ローレンが、ぽそぽそ呟く。
「ぼくを抱きたいのなら壊れるまで抱けばいいと思うけど、それはリックが望む答えじゃない。いっそ拒めばいいのかもしれない、と思っても、ぼくはそれもできない。リックの側に居たい、ってことが、空っぽのぼくが初めて自分自身の魂で望んだことだから」
「……今は空じゃないだろ。リックを愛してるんだから」
俺が何気なく言うと、ローレンはぎょっとしたように眼を見開き、その後で酷く困った顔をした。
「それは解らないよ。リックを愛してる?ジーザス、そんなことがあるんだろうか」
途方にくれたように首を振ったローレンは、しばし考え込んだ。
俺は、黙ってもう一度グラスの中身を啜った。ウィスキーが嫌に苦い気がした。
長い間を置いて、ローレンはもう一度口を開いた。
「……やっぱり、良くわからない。ぼく、きっと本当に馬鹿なんだと思う」
そう結論付けて、ローレンは儚げに笑った。
「ただね、イアン。もしリックがぼくより先に死んだりしたら、ぼくを棺と一緒に火に入れてもらいたいって思う。リックは天国でも地獄でも行きたいところへ行くだろうから、途中までしか一緒に行けないかもしれないけどさ」
それでも、いいよ―――――
ローレンが呟いたとき、インターホンが鳴った。俺が取ると、リックの冷たい声がした。
「エディングスか。突然ですまないが犬は使えるか」
「……ただいま準備をいたします、アシュレイ様」
シャツのボタンを外すローレンを横目で見ながら、俺は答えた。
受話器を置いたときにはもう全裸で床に膝を着いている犬に、歩み寄る。
いつの間にか、ローレンの目は。世界で一番ご主人様を愛している、いじらしい可愛い犬のそれになっていた。
「……と。それだけの話さ」
締めくくった俺をレオポルドが怪訝そうに見やる。
「ははあ。……つまり、主人は犬を大事にしてる。犬は主人を愛してる。文句なしのいい話じゃないのか?何で、お前がブルーになるんだ?」
クエスチョン・マークが張り付いて見えるような不思議そうな顔はとことん無邪気で、俺は笑いそうになったが、出てきたのは涙だった。
「……さあな」
答えて、俺はレオポルドの首に腕を回した。
愛している。馬鹿で能天気な、俺の恋人。
「何だ。もう一度、やりたいのか?イアン」
嬉しそうにむしゃぶりついてくるレオポルドの楽しそうな目を見ながら、俺は不意に悟った。
“―――ああ、そうか”
リックにあってレオポルドにないもの。
“リックは、きっと。賢すぎたんだ”
レオにも、踏み躙られた苦しみの時があった。信じたものに裏切られて憎悪に脳を焼いた日々があった。
絶望に彩られてどんよりと濁った目を、俺は確かに見た。暗い破滅的な怒りで壊れかけて泣いたレオの苦悩を、俺は見た。
“でも、こいつは忘れた。終わったら、何もかも綺麗さっぱり忘れちまいやがった。そういう奴なんだった、俺の恋人は”
忘れる力。それは欠点でなく美点なのだ、と俺は知った。それこそが、レオにあってリックにない稀有の才能だったのだ。
起こった事実ではなく、その時の苦しみと絶望の感覚をレオは忘れた。
復讐を終えたレオポルドは、けろりと笑いながら俺のところへ帰ってきて、愛してるから付き合おう、と言った。
気も狂わんばかりに疼く残酷な傷の痛みを忘れ、再び愛し愛されて信頼を交わす幸福に酔う道を、躊躇なくこいつは選んだ。
リックには、忘れることが出来なかった。賢すぎた彼は、報復を終えたその後も全てを心臓に刻みつけたままで生きなければならなかった。
だからリックは、二度と愛していると言う言葉を使えない。真実であればあるほど、口になど出来ない。言えば、己が壊れてしまう。
レオのような明るい顔で嬉しそうに、ローレンに好きだと言うことなど、きっと永遠に出来ない。
裏切られ続け、それを己の力ひとつで跳ね返し続けてきた、自身の人生。それを否定する愛を認めるより、暴力と権力による支配で貫き通した世界を彼は選んだ。
リックは単なる同性愛者で、俺の見たてでは嗜虐趣味は特にない。だから彼は、もう今はローレンを打たない。自分のものになった犬に対して、道具も器具も使おうとしない。
そう言ったタイプの客は、たいてい気に入った犬を野外奴隷として外の世界で飼い、甘やかして恋人のように扱う。
だが、リックは頑としてローレンをヴィラの外へ出さない。ローレンを訪ねるときには必ず俺を呼びつけて、調教の準備をさせる。
愛しい者は力と恐怖に強いられてリックの元に閉じ込められていて己の意思や感情では逃れられないのだ、という形を最も簡単に解り易く見せてくれる手段として、彼はヴィラを望んだ。
激しい拷問で廃人になったり手足を切られてトルソーにされたりする恐怖が近くにあるから、ローレンは必死でリックに媚びて尾を振り身体を投げ出すのだ、と。
その論理のもとでだけ、リックはローレンを傍において寛ぐことができる。
“……くそったれ”
裏切りの記憶。レオが事の済んだ後はいとも容易く片付けてしまったそれは、リックにとっては生涯背負ってゆく重い十字架になってしまった。
「……レオ。レオポルド」
「ん?何だ、イアン」
レオポルドが、俺の胸に顔をうずめながらくぐもった声で聞く。俺は、泣き笑いの顔で続けた。
「愛してる、レオ。だからお前も、俺を愛してるって言えよ」
ちょっと驚いたように顔を上げたレオポルドは、俺の顔を見て、ぎゅっと抱きしめてきた。
「当たり前だろ、イアン。何よりも、お前が好きだよ。愛してる」
その言葉が死ぬほどの幸福感をもたらして、俺は本当に泣き喚きたくなった。
リックも、そう言えばいい。信じたものに裏切られた記憶も絶望の悲哀も全てレオのように忘れてしまって、今目の前に居る愛犬に、お前を愛してるよ、と言って優しく撫で回してやればいい。
そしたら、ローレンは花のように笑いながら涙を流して飛びつくだろう。この世界で初めて、己の人生を生きることの意味を教えてくれた親友であり主人である男に向かって。
だけどローレンにも、それができない。彼は、共に逝きたいと言い切れるほどに愛している飼い主の心を溶かせずに居る。
その理由も、判る。ローレンもまた、愛の何たるかを知らないからだ。
生まれて初めて知った強い想い、断ち難い執着をどう処理していいか、彼は解らない。
彼はただ、向けられたリックの背に縋って鳴く。傍に置いて、と懇願して請う。
それを見てリックはまた、自分は間違っていないと考えて、いましめを強める。逃げれば死と拷問の恐怖があり、屈辱に耐えて大人しくしていれば快適な生活が手に入る、と言う現実を愛犬に教え込むために。
“馬鹿げてる!!”
くだらない喜劇だ。安っぽい三文芝居でしかない。傍観者であり観客である俺は、時々そう叫びたくなる。
“ローレンが逃げたがらないのは、リックを好きだからだ。お前たちにヴィラは要らない。鞭も首輪も必要ない。鬱陶しいんだ、出て行ってくれ。外で自由に愛し合えよ、リック。お前たちは俺たちと同じくらいに恋人だ”
きっかけなんかどうでもいい。今、リックとローレンは全身全霊で愛し合っているのだ。なのに彼らは、幸せな恋人にも円満な主人と犬にもなれずにいる。
ああして背を向けあうような日々を重ねてゆき、それはどこまでも手のひらから砂がこぼれるようにこぼれおちて残らない。胸を暖めてくれる思い出にすら、ならない。
「……俺は幸せだな、レオ」
「俺もだよ、イアン。世界で一番、俺は幸福な男だ」
にこにこ笑うレオポルドの腕の中で、俺は呟いた。
お前でよかった、と。
俺が愛した男が、俺を愛してる男が、レオポルドだから俺はこうして幸せで居る。
それは確かに、ほんの少しの何かが違っていたら、あの2人にも等しく訪れていたはずのものだったのだ。
ローレンが言ったようにリックが逝く日が来たとき、リックはローレンに憎まれていると信じて死ぬことができるのだろうか。
主の棺と共に火葬の炎に身を投じるローレンの姿を、リックの霊は見られるのだろうか。
「レオポルド、俺を離すな。死ぬまでお前ひとりだ。他には誰も愛さない。俺は絶対にお前から離れない。だから、どこにも行くな」
「おい、イアン」
普段なら絶対に口にしないような言葉に、レオポルドが少し驚いた気配が伝わってくる。俺は構わずに、この幸せな馬鹿たれにしがみついて泣いた。
―――――ヴィラの片隅にある家に、世界で一番幸せな犬が住んでいると言う。
その犬は、家から出ない。家の中で一人、綺麗な服を着て美味しいものを食べて、贅沢に暮らしている。
鞭で打たれることもない、広場で卵を産まされることもない。欲しいものは何でも、金に糸目をつけないご主人様が買ってくれる。
本を読んでストラディヴァリのヴァイオリンを奏で、時折り暇になると足を向ける一人のアクトーレスを話し相手にして、ただご主人様を待っている。
暇さえあれば来てくれるご主人様は、外に家族も友人もいない。クリスマスもニューイヤーズデイも、バレンタインデイも誕生日も、ご主人様はヴィラで彼と一緒に過ごす。
ベッドの中で彼を抱いて、ご主人様が呟く。
俺を憎め、と。
決して彼の愛を受け入れない凍えた蒼い瞳をして、ご主人様は呟く。
お前は死ぬまでここから出さない、俺の側を離さない。だから俺を憎め、と。
そして夜明けに目覚めた犬は、ご主人様の寝顔に呟く。
ごめんね、憎んであげられなくて、と。
裏切りたいと思ってあげられなくてごめんね、と。
そしてほんの少しだけ、泣く。
―――――ヴィラの片隅にある、綺麗な家。
世界で一番幸せな犬が住んでいる、と住人たちは言う―――――――
終わり
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